忌みなど過ぎて、京の殿になど聞きたまへば、ほど経て、みづから、のどかなる夜おはしたり
1ヶ月とされているもの忌みの期限も過ぎ、今は京の屋敷に戻ってっいらしゃると聞き、それから少し経った頃にご自身でお暇をみつけて夜にお出掛けになった。
いとすごげに荒れたるところの人少ななるに、いかに幼き人おそろしからむと見ゆ
すごく荒れているところで、人の気配も少ない中にどんなにかおそろしく暮らしているだろうかと感じられる。
例の所に入れたてまつりて、少納言、御有様などうち泣きつつ聞こえ続くるに、あいなう御袖もただならず
前回と同じく南の廂の間にお通しして、少納言がご臨終の様子などを涙をたたえながらお伝えするので、源氏もついもらい泣きをしてしまわれる。
宮にわたしたてまつらむとはべるめるを、故姫君の、いと情けなく憂きものに思ひきこえたまへりしに、
「兵部卿の宮様のところへお預けすることとなっていますが、亡くなった姫君があちら様をたいへん薄情で憂鬱の種に思っていらしたということもあり、
いとむげに稚児ならぬ齢の、またはかばかしう人のおもむけをも見しりたまはず、
まったく無邪気な幼児という年ではなく、かといってしっかりと人の意向をお分かりになる程でもなく、
中空なる御ほどにて、
中途半端なお年頃で、
あまたものしたまふなる中の、あなづらはしき人にてや交わりたまはむなど、
沢山いらっしゃる宮様のお子様のなかに、軽くみくびられた様に扱われはしないかなど、
過ぎたまひぬるも、世とともに思し嘆きつること、
尼君も、いつも思い嘆いておりましたが、
しるきこと多くはべるに、
実際にそのように思えることも多くありましたので、
かくかたじけなきなげの御言の葉は、後の御心もたどりきこえさせず、いとうれしう思ひたまへられぬべきをりふしにはべりながら、
かりそめにもいただけるかたじけないお言葉は、後々のことはわからないこととしても、大変嬉しく思っている折ではございますが、
すこしもなぞらひなる様にもものしたまはず、御年よりも若びてならひたまへれば、いとかたはらいたくはべる、と聞こゆ
姫さまが、少しもお似合いのようではいらっしゃらずに、お年の程よりまだ子ども子どもしていらっしゃいますので、なんとも恥ずかしい次第でございます」と申し上げる。
何か、かうくり返し聞こえ知らする心のほどを、つつみたまふらむ
「どうして、このように何回も申し上げております私の心の程をご遠慮なされるのでしょうか、
その言ふかひなき御心の有様の、あはれにゆかしうおぼえたまふも、
そのあどけない、そのままのお心が、大変心に染みてゆかしく思われてしまうのも、
契りことになむ、心ながら思ひ知られける
前世よりの浅からぬご縁なのだろうと、心のままに思い知ったのでございます。」
なほ人づてならで、聞こえ知らせばや
「他を介せずに、直接姫にお伝えしたい気持ちもございます。」
あしわかの浦にみるめはかたくとも こは立ちながらかへる波かは
和歌の浦(歌枕)で、会うことは難しくても、立ち返る波はもう戻ることができない。
葦が若く生い茂っているわかの浦の海松布(海草)を採るのが難しくても、せっかく思い立ったのだから、思いをひる返すことはできないよ。
めざましからむ
驚いたことだね、
とのたまへば、
と仰せになれば、
げにこそいとかしこけれ、とて
まことに畏れ多いことで、と言って
寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかむほどぞ浮きたる
寄る波の心も知らないのに、若い姫君がお誘いに靡くとしたら、それはただ軽卒なことでしょう。
わりなきこと
無理というもの。
と聞こゆる様の馴れたるに、少し罪許されたまふ
とすらすらとお詠みになるのが慣れた様子なので、源氏は少し心がお和みになられる。
なぞ越えざらむ
どうして越えられない、
と、うちずじたまへるを、身に染みて若き人々思へり
と、口ずさまれるのを聞くと、若い女房たちは身に染みて感慨深い。
君は上を恋ひきこえたまひて泣き臥したまへるに、御遊びがたきどもの、
姫君は尼上を恋しがって泣きながら臥していらしたところに、遊び仲間のわらわべが来て、
直衣着たる人のおはする、宮のおはしますなめり
「直衣を着ている方がいらっしゃるよ、宮がおいでになったのかな、」
と聞こゆれば、起き出でたまひて、
と教えると、起き出していらっしゃって、
少納言よ、直衣着たりつらむは、いづら、宮のおはするか
「少納言よ、直衣を着ている方ってどこにいらっしゃるの? 宮がおいでになったの?」
とて、寄りおはしたる御声、いとらうたし
と、近くに寄ってこられるお声がたいへん可愛らしい。
宮にはあらねど、また思し放つべうもあらず、こち
「宮ではありませんが、またお嫌いになる必要もありませんよ、こちらへ、」
とのたまふを、恥づかしかりし人と、さすがに聞きなして、
という声で、あっ源氏の君、とさすがにお判りになって、
あしう言ひてけり、と思して、
まちがえたのだ、と思い、
乳母にさし寄りて、
乳母のところへ行き、
いざかし、ねぶたきに
「さあ行こうよ、眠たいから、」
とのたまへば
と言えば
いまさらに、など忍びたまふらむ、この膝の上に大殿籠れよ、今少し寄りたまへ
「今更に、どうしてお隠れになるのですか?わたしの膝の上でお休みになりなさいよ、さあこちらへ、」
とのたまへば、乳母の
と仰せになれば、少納言の乳母は、
さればこそ、かう世づかぬ御ほどにてなむ
「申し上げた通りに、このように人見知りをする程でございまして、」
とて、押し寄せたてまつりたれば、何心もなくゐたまへるに、
と、姫君を押してさしあげると、何心もなくちょこんとお座りになっているので、
手を差し入れて探りたまへれば、
几帳の下から手を差し入れてみると、
なよよかなる御衣に、髪はつやつやとかかりて、末のふさやかに探りつけられたる、
柔らかに着なしたお着物に髪がつやつやとかかって、髪の端を手にとると、ふさふさとしている感触が探りつけられる、
いとうつくしう思ひやらる
さぞかし可愛らしい姫君だろう
手をとらへたまへれば、うたて、例ならぬ人の、かく近でうきたまへるは、恐ろしうて、
手をおとりになると姫君は嫌がって、知らない人がこのように近づいてくるのは恐ろしく、
寝なむといふものを
「寝るって言っているのに、」
とて強ひてひき入りたまふにつきて、すべり入りて、
と、ぐいっと手をお引きになったのに引かれるようにして、すべり向こう側に抜けると、
今は、まろぞ思ふべき人、なうとみたまひそ
「これからは、わたくしがあなたを大切に思っていくのですから、お嫌いにならないで下さいね。」
とのたまふ
と仰せになる。
乳母
少納言の乳母
いで、あなうたてや、ゆゆしうもはべるかな、聞こえ知らせたまふとも、さらに何のしるしもはべらじものを
「まあなんていうこと、ゆゆしきことでもござますわ、言い聞かせたところで何のあかしもありはしないのに、」
とて、苦しげに思ひたれば、
と苦しそうに思っているところへ、
さりとも、かかる御ほどをいかがはあらむ
「いくらなんでも、こんなに可愛らしい姫君をどうこうしようということはありません。
なほ、ただ世に知らぬこころざしのほどを見果てたまへ
ただ、並々ではないわたしの心の程を最後まで見てください。」
霰降りあれて、すごき夜の様なり
霰が散り、荒れた空模様のぞっとする夜の様相である。
いかで、かう人少なに、心細うて過ぐしたまふらむ
「どうやって、この少ない人数で心細い夜を過ごされるのでしょうか、」
とうち泣いたまひて、いと見捨てがたきほどなれば、
と涙ぐんで、放っておけない気持ちでいらっしゃるようで、
御格子参りね、もの恐ろしき夜の様なめるを、宿直人(とのゐびと)にてはべらむ
「格子を降ろしなさい、もの恐ろしい夜になりそうなので、宿直のお役をしていきましょう」
人々近うさぶらはれよかし
「皆、近くにおいで下さい」
とて、いと馴れ顔に御帳(みちょう)の内に入りたまへれば
と、たいへん慣れたご様子で、ご寝室にお入りになったので、
あやしう思ひのほかにもと呆れて、誰も誰もゐたり
あっけにとられて、あまりの思いのほかのことと唖然として、誰もがそこに居あわせるのだった。
乳母は、うしろめたう、わりなし、と思へど、荒らましう聞こえ騒ぐべきならねば、うち嘆きつつゐたり
少納言の乳母は、「大丈夫かしら?どうしよう・・・」と思っても、ことを荒立てて言い騒ぐべきことではないので、ただ嘆いてのみおいでになる。
若君は、いと恐ろしう、いかならむ、とわななかれて、
若い姫君は、とても恐ろしく、どうなるんだろうと小刻みに震えていらっしゃる。
いとうつくしき御肌つきも、そぞろ寒げに思したるを、らうたくおぼえて、
若々しいお肌が、緊張のあまり少し冷たくなってしまっているのを、いとおしくお思いになって、
単衣(ひとへ)ばかりを押しくくみて、
薄い単衣を押し込むようにして、羽織らせてあげて、
わが御心地も、かつは、うたておぼえたまへど、
ご自身のご気分としても、頭の一方では、異様な振る舞いのようにも思われるのだけれども、
あはれにうち語らひたまひて、いざ、たまへよ、をかしき絵など多く、雛遊びなどする所に
ただただお優しくお声を掛けられて、「是非においでくださいませよ、綺麗な絵とか、雛遊びなどできるのですよ。」
と心につくべきことをのたまふ気配のいとなつかしきを、幼き心地にも、いといたう怖ぢず、
と、姫のご機嫌を伺っているご様子はたいへん安心できる感じなので、幼心にもそれほど怖がらずに、
さすがにむつかしう、寝も入られずおはして、身じろき臥したまへり
それでも気分がいいわけではなく、眠気も催さないので、そのまま横になって起きていらっしゃる。
夜一夜(よひとよ)風吹き荒るるに、げにかうおはせざらましかば、いかに心細からまし
一晩中、風邪が吹き荒れているので、「まことにこのようにいらして下さらなければどんなに心細かったことかしら、
同じくはよろしき程におはしまさましかば、
同じことならば、姫君がお年頃でいらっしゃったならば・・・・」
とささめきあへり
と、女房たちはささめき合っている。
乳母はうしろめたさに、いと近うさぶらふ
少納言の乳母は、心配のあまり御帳にへばりついている。
風邪少し吹きやみたるに、夜深う出でたまふも、事あり顔なりや
風邪が少しやんだので、夜明け前に退出されるというのも、あたかも事が終わったかの風である。
いとあはれに見たてまつる御有様を、今はまして片時の間もおぼつかなかるべし
「たいへん可愛らしいご様子をお見受けしてしまった今となっては、片時の間も忘れられないことでしょう。
明け暮れながめはべる所に渡したてまつらむ、かくてのみは、
明け暮れ所在無くしておりますわたしくのところへ是非おいでください。このままでは・・・・」
いかがもの怖じしたまはざりけり
どうして怖くなかったのですか?」
とのたまへば、
と仰せになれば、
宮も御迎へになど聞こえのたまふめれど、この御四十九日過ぐしてや、など思うたまふる
「宮様も、姫君をお迎えにいらっしゃるということですが、四十九日が過ぎてからになるかと思っております。」
と聞こゆれば、
と申し上げると、
頼もしき筋ながらも、よそよそにてならひたまへるは、同じうこそ、疎うおぼえたまはめ、
「ご親族ではあるけれども、ずっと別々にお暮らしになられたのであれば、わたくしと同様に、よそよそしくお感じになることでしょう、
今より見たてまつれど、浅からぬ心ざしはまさりぬべくなむ、とて、かい撫でつつ、かへりみがちにて出でたまひぬ
「今初めてお会いしましたが、わたしの思いの深さはお父様以上のはずです」と、髪をかき撫でつつ、何度も振り返りながら、ご退出なされた。
をかしかりつる人のなごり恋しく、ひとり笑みしつつ臥したまへり
可愛らしい姫君の名残りを思いながら、ひとりでに笑みがこぼれつつお休みになられていた。
日高う大殿籠り起きて、
日が高くなってから目覚め起きて、
ふみやりたまふに、書くべき言葉も例ならねば、筆うち置きつつすさびゐたまへり
お手紙をお遣わしになるのに、書く言葉もいつもとは違うので、筆を中断しつつあれこれお考えになられる。
をかしき絵などをやりたまふ
きれいな絵などを一緒に送られた。
2011年8月31日水曜日
2011年8月30日火曜日
かしこには、今日しも宮渡りたまへり
かしこには、今日しも宮渡りたまへり
大納言邸では、源氏がお帰りになったまさにその日に宮様がおいでになられる。
年頃よりもこよなう荒れまさり、広うものふりたる所の、いとど人少なにさびしければ、見わたしたまひて、
以前よりも更に荒れ放題となって、広い敷地に古びた屋敷で、住む人も少なくさみしいばかりなのを見渡して、
かかる所には、いかでかしばしも、幼き人のすぐしたまはむ
「こんなところでは、幼い子どもが住んでいるのは少しの間でもたいへんでしょう、
なほ、かしこに渡したてまつりてむ
やはり、お屋敷にお移りくださいませ
何のところせきほどにもあらず、乳母は曹司などしてさぶらひなむ
何も窮屈なところではありませんよ、乳母はひとつ部屋がありますから、そこでお仕えしてください。
君は若き人々あれば、もろともに遊びて、いとようものしたまひなむ
若君には、同じくらいの年の子がいますから、一緒に遊んで、楽しく過ごせるはずですよ」
などのたまふ
などと、おっしゃる。
近う呼び寄せたてまつりたまへるに、かの御移り香の、いみじう艶に染みかへらせたまへれば、
近くお呼び寄せになると、源氏のお召し物に焚き染められた御香が移り香となって、たいそう優雅に匂い漂うので、
をかしの御匂ひや、御衣(おんぞ)はいと萎えて
「すばらしい香りですね、お着物は萎えていらっしゃるけれども・・・」
と心苦しげに思いたり
と心苦しげにお感じになっていらっしゃる。
年頃も、あつしくさだすぎたまへる人に添ひたまへるよ
「何年もの間、ご病気で、若くもない尼上と、ご一緒にいらっしゃいましたね。
かしこに渡りて見ならしたまへなどものせしを、
あちらにお渡り頂いて、早く馴染んでくださいませとも申し上げておりましたが、
あやしう疎みたまひて、人も心置くめりしを、
なぜだかお疎みになられていらしたので、あちらのお方も気兼ねをされているようでしたので・・・
かかるをりにしもものしたまはむも、心苦し
このような折に、お移り頂くというのも心苦しくはありますが、」
などのたまへば、
などとおっしゃるので、
何かは、心細くとも、しばしは、かくておはしましなむ
「なんでもございません、心細くあっても、しばらくはここでお過ごしになるでしょう。
すこしものの心思し知りなむに渡らせたまはむこそ、よくははべるべけれ
もう少しものがわかるようになってから、お移りになるのがいいでしょう」
と聞こゆ
と申し上げる
夜昼恋ひきこえたまふに、はかなきものも聞こしめさず
「夜昼となく尼上を恋しがっていらっしゃって、ちょっとしたものも召し上がらないのです」
とて、げにいといたう面痩せたまへれど、いとあてにうつくしく、なかなか見えたまふ
と言って、たしかに、ふっくらしていたお顔が面痩せしていらっしゃるけれども、かえってそれが上品で可愛らしく見える。
何かさしも思す、今は世に亡き人の御事はかひなし、おのれあれば
「どうして、そんなにまでも思い詰めるのですか?今はもう亡き人のことを思っても仕方ありませんよ、わたしがいるでしょ」
など語らひきこえたまひて、暮るれば、帰らせたまふを、
などと語り聞かせて、日が暮れたので、もうお帰りになるのを、
いと心細しと思いて泣いたまへば、宮うち泣きたまひて、
たいへん心細くなり、お泣きになるので、宮様ももらい泣きされて
いとかう思ひな入りたまひそ
「こんなにまで、思い詰めないでください
今日明日渡したてまつらむ
今日か明日にでもお迎えにきましょう」
など、かへすがへすこしらへおきて、出でたまひぬ
などと、返すがえすなだめおいてお帰りになる
なごりも慰めがたう泣きゐたまへり
名残のさみしさも慰めがたく、ずっと泣いていらっしゃる。
行く先の身のあらむことなどまでも思し知らず、
これから自分がどうなることかなどは思いも及ばず、
ただ年頃たち離るるをりなうまつはしならひて、今は亡き人となりたまひにける、と思すがいみじきに、
ただ、この何年か、離れることなく、お側でまとわりつくようにして慣れていた尼上が、今は亡き人となってしまった、と思うと
幼き御心地なれど、胸つとふたがりて、例のやうにも遊びたまはず、
幼い心地にも胸がふとふさがって、いつものようにも遊ぶ気にならず、
昼はさてもまぎらはしたまふを、夕暮れとなれば、いみじく屈したまへば、
昼間はそれでも気が紛れているが、夕暮れにもなれば、どうしようもなく気分が滅入ってしまうので、
かくてはいかでか過ごしたまはむ、と慰めわびて、乳母も泣きあへり
こんな風では、どうやってこの先暮らしていけるのかしら、と慰めかねて、乳母も一緒に泣くのであった。
大納言邸では、源氏がお帰りになったまさにその日に宮様がおいでになられる。
年頃よりもこよなう荒れまさり、広うものふりたる所の、いとど人少なにさびしければ、見わたしたまひて、
以前よりも更に荒れ放題となって、広い敷地に古びた屋敷で、住む人も少なくさみしいばかりなのを見渡して、
かかる所には、いかでかしばしも、幼き人のすぐしたまはむ
「こんなところでは、幼い子どもが住んでいるのは少しの間でもたいへんでしょう、
なほ、かしこに渡したてまつりてむ
やはり、お屋敷にお移りくださいませ
何のところせきほどにもあらず、乳母は曹司などしてさぶらひなむ
何も窮屈なところではありませんよ、乳母はひとつ部屋がありますから、そこでお仕えしてください。
君は若き人々あれば、もろともに遊びて、いとようものしたまひなむ
若君には、同じくらいの年の子がいますから、一緒に遊んで、楽しく過ごせるはずですよ」
などのたまふ
などと、おっしゃる。
近う呼び寄せたてまつりたまへるに、かの御移り香の、いみじう艶に染みかへらせたまへれば、
近くお呼び寄せになると、源氏のお召し物に焚き染められた御香が移り香となって、たいそう優雅に匂い漂うので、
をかしの御匂ひや、御衣(おんぞ)はいと萎えて
「すばらしい香りですね、お着物は萎えていらっしゃるけれども・・・」
と心苦しげに思いたり
と心苦しげにお感じになっていらっしゃる。
年頃も、あつしくさだすぎたまへる人に添ひたまへるよ
「何年もの間、ご病気で、若くもない尼上と、ご一緒にいらっしゃいましたね。
かしこに渡りて見ならしたまへなどものせしを、
あちらにお渡り頂いて、早く馴染んでくださいませとも申し上げておりましたが、
あやしう疎みたまひて、人も心置くめりしを、
なぜだかお疎みになられていらしたので、あちらのお方も気兼ねをされているようでしたので・・・
かかるをりにしもものしたまはむも、心苦し
このような折に、お移り頂くというのも心苦しくはありますが、」
などのたまへば、
などとおっしゃるので、
何かは、心細くとも、しばしは、かくておはしましなむ
「なんでもございません、心細くあっても、しばらくはここでお過ごしになるでしょう。
すこしものの心思し知りなむに渡らせたまはむこそ、よくははべるべけれ
もう少しものがわかるようになってから、お移りになるのがいいでしょう」
と聞こゆ
と申し上げる
夜昼恋ひきこえたまふに、はかなきものも聞こしめさず
「夜昼となく尼上を恋しがっていらっしゃって、ちょっとしたものも召し上がらないのです」
とて、げにいといたう面痩せたまへれど、いとあてにうつくしく、なかなか見えたまふ
と言って、たしかに、ふっくらしていたお顔が面痩せしていらっしゃるけれども、かえってそれが上品で可愛らしく見える。
何かさしも思す、今は世に亡き人の御事はかひなし、おのれあれば
「どうして、そんなにまでも思い詰めるのですか?今はもう亡き人のことを思っても仕方ありませんよ、わたしがいるでしょ」
など語らひきこえたまひて、暮るれば、帰らせたまふを、
などと語り聞かせて、日が暮れたので、もうお帰りになるのを、
いと心細しと思いて泣いたまへば、宮うち泣きたまひて、
たいへん心細くなり、お泣きになるので、宮様ももらい泣きされて
いとかう思ひな入りたまひそ
「こんなにまで、思い詰めないでください
今日明日渡したてまつらむ
今日か明日にでもお迎えにきましょう」
など、かへすがへすこしらへおきて、出でたまひぬ
などと、返すがえすなだめおいてお帰りになる
なごりも慰めがたう泣きゐたまへり
名残のさみしさも慰めがたく、ずっと泣いていらっしゃる。
行く先の身のあらむことなどまでも思し知らず、
これから自分がどうなることかなどは思いも及ばず、
ただ年頃たち離るるをりなうまつはしならひて、今は亡き人となりたまひにける、と思すがいみじきに、
ただ、この何年か、離れることなく、お側でまとわりつくようにして慣れていた尼上が、今は亡き人となってしまった、と思うと
幼き御心地なれど、胸つとふたがりて、例のやうにも遊びたまはず、
幼い心地にも胸がふとふさがって、いつものようにも遊ぶ気にならず、
昼はさてもまぎらはしたまふを、夕暮れとなれば、いみじく屈したまへば、
昼間はそれでも気が紛れているが、夕暮れにもなれば、どうしようもなく気分が滅入ってしまうので、
かくてはいかでか過ごしたまはむ、と慰めわびて、乳母も泣きあへり
こんな風では、どうやってこの先暮らしていけるのかしら、と慰めかねて、乳母も一緒に泣くのであった。
2011年8月29日月曜日
かけてもいと似げなき御こと
君の御許よりは、惟光を奉れたまへり
源氏のもとからは、惟光が遣わされた。
参り来べきを、内裏より召しあればなむ、心苦しう見たてまつりしも、静心なく
「参上致すべき折ですが、宮中よりお呼びがかかりまして、本日は伺えません。さみしいお屋敷のご様子が心配でなりませんが・・・」
あぢきなうもあるかな、戯れにても、もののはじめにこの御ことよ
「まあなんてことかしら、かりそめにても、もののはじめから、こんなこととは、
宮聞こしめしつけば、さぶらふ人々のおろかなるにぞさいなまむ
宮様がお聞きになられたら、仕える者が至らないからと、お叱りになるでしょう
あなかしこ、もののついでに、いはけなくうち出できこえさせたまふな
間違っても、何かの拍子に、うっかりとこのことは、話してしまう様なことがないように」
など言ふも、それをば何とも思したらぬぞあさましきや
などと言っているのだが、何のことかもお分かりにならないことなのだから、話しにもならない。
少納言は、惟光にあはれなる物語りどもして、
少納言は、惟光に姫様の境遇などもお話しして、
あり経て後や、さるべき御宿世、逃れきこえたまはぬやうもあらむ
後々のこととしては、姫様の宿世は、そのようなものであるのかもしれません。
ただ今は、かけてもいと似げなき御ことと見たてまつるを、
ただ今は、全く似つかわしくないお話でございますので、
あやしう思しのたまはするも、いかなる御心にか、思ひよる方なう乱れはべる
不思議と、お心遣いを頂き、お言葉を頂いても、どのようなお気持ちからか、思いよるすべもなく心が乱れております。
今日も宮渡らせたまひて、
今日も宮様がおいでになって、
うしろやすく仕うまつれ、心幼くもてなしきこゆな
「あとの心配がないようにお仕えしてください、一人の女性としてお扱いください」
とのたまはせつるも、いとわづらはしう、
とおっしゃられたことも、大変心に掛かり、
ただなるよりは、かかる御好き事も思ひ出でられはべりつる
そのようなことで、あのような勝手なお振る舞いも思いだされるのです。
など言ひて、この人も事あり顔にや思はむなど、あいなければ、
などと言って、惟光にあたかも事があったかのように思われるのもしゃくなので、
いたう嘆かしげにも言ひなさず、大夫も、いかなることにかあらむ、と心得がたう思ふ
淡々とお話しになられるので、惟光の方も、いったいどんなことがあったのか、と不思議に思っている。
源氏のもとからは、惟光が遣わされた。
参り来べきを、内裏より召しあればなむ、心苦しう見たてまつりしも、静心なく
「参上致すべき折ですが、宮中よりお呼びがかかりまして、本日は伺えません。さみしいお屋敷のご様子が心配でなりませんが・・・」
あぢきなうもあるかな、戯れにても、もののはじめにこの御ことよ
「まあなんてことかしら、かりそめにても、もののはじめから、こんなこととは、
宮聞こしめしつけば、さぶらふ人々のおろかなるにぞさいなまむ
宮様がお聞きになられたら、仕える者が至らないからと、お叱りになるでしょう
あなかしこ、もののついでに、いはけなくうち出できこえさせたまふな
間違っても、何かの拍子に、うっかりとこのことは、話してしまう様なことがないように」
など言ふも、それをば何とも思したらぬぞあさましきや
などと言っているのだが、何のことかもお分かりにならないことなのだから、話しにもならない。
少納言は、惟光にあはれなる物語りどもして、
少納言は、惟光に姫様の境遇などもお話しして、
あり経て後や、さるべき御宿世、逃れきこえたまはぬやうもあらむ
後々のこととしては、姫様の宿世は、そのようなものであるのかもしれません。
ただ今は、かけてもいと似げなき御ことと見たてまつるを、
ただ今は、全く似つかわしくないお話でございますので、
あやしう思しのたまはするも、いかなる御心にか、思ひよる方なう乱れはべる
不思議と、お心遣いを頂き、お言葉を頂いても、どのようなお気持ちからか、思いよるすべもなく心が乱れております。
今日も宮渡らせたまひて、
今日も宮様がおいでになって、
うしろやすく仕うまつれ、心幼くもてなしきこゆな
「あとの心配がないようにお仕えしてください、一人の女性としてお扱いください」
とのたまはせつるも、いとわづらはしう、
とおっしゃられたことも、大変心に掛かり、
ただなるよりは、かかる御好き事も思ひ出でられはべりつる
そのようなことで、あのような勝手なお振る舞いも思いだされるのです。
など言ひて、この人も事あり顔にや思はむなど、あいなければ、
などと言って、惟光にあたかも事があったかのように思われるのもしゃくなので、
いたう嘆かしげにも言ひなさず、大夫も、いかなることにかあらむ、と心得がたう思ふ
淡々とお話しになられるので、惟光の方も、いったいどんなことがあったのか、と不思議に思っている。
2011年8月28日日曜日
東琴(あづまごと)をすが掻きて、
参りて有様など聞こえれば、あはれに思しやらるれど、さて通ひたまはむもさすがにすずろなる心地して、
惟光は、源氏のもとに参上して、屋敷の様子などを申し上げると、源氏は感慨深く思いを馳せるのだが、そうかといって、通い詰めるのもさすがに無意味な気がして、
軽々しうもてひがめたると、人もや漏り聞かむなどつつましければ、
誰かが漏れ聞いたら、軽々しく、常軌を逸している行動だと噂がたつのも避けたいので、
ただ、迎へてむと思す
方法はただひとつ、二条院にお迎えしようと考える。
御文はたびたび奉れたまふ
お手紙はたびたび送らせて、
暮るれば、例の大夫をぞ奉れたまふ
日が暮れれば惟光をお遣わしになる。
さはる事どものありて、え参り来ぬを、おろかにや
「差しさわりがありまして、参上できませんが、おろそかにしているとお考えではないでしょうか、」
などあり
などとお伝えする。
宮より明日にはかに御迎へにとのたまはせたりつれば、心あわたたしくてなむ、
「宮様より、急遽明日、迎えに来られるとのことでしたので、あわただしくしております。
年頃の蓬生(よもぎふ)を離(か)れなむも、さすがに心細く、さぶらふ人々も思ひ乱れて
長年住み慣れた蓬のお屋敷も、離れてしまうとなるとさすがに心細くて、仕える者たちも思い乱れております。」
と言少なに言ひて、をさをさあへしらはず、物縫ひ営むけはひなどしるければ、参りぬ
と言葉少なく、さほど相手にもせずに、縫い物などに精を出している様子なので、惟光は早々に帰参したのであった。
君は大殿におはしけるに、例の女君、とみにも対面したまはず、ものむつかしくおぼえたまひて、
源氏の君は左大臣邸にいらっしゃるが、例のごとく、女君はすぐにもお出ましにならない。所在なく思われて、
東琴(あづまごと)をすが掻きて、
東琴をすが掻きにし
常陸には田をこそつくれ、といふ歌を、声はいとなまめきて、すさびゐたまへり
「常陸には田をこそつくれ・・・・(田作りで多忙で、浮気などしていないのに・・・・)」という歌を、なまめかしい声で興じていた。
参りたれば、召し寄せて、有様問ひたまふ
惟光がやってきたので、お部屋に呼び寄せて様子を尋ねる。
しがじかなむ
これこれこうでございます
と聞こゆれば、くちをしう思して、
と報告を聞くと、おもしろくない、とお思いになって
かの宮に渡りなば、わざと迎へ出でむもすきずきしかるべし
「一度兵部卿の元に渡ってしまえば、引き取るにしても噂が立ち差し障りがあるだろう。
幼き人盗み出でたりと、もどき負ひなむ
幼い人を盗み出したと非難も受けるかもしれない。
その前に、しばし人にも口がためて、渡してむ
その前に、しばらくの間口止めをして、二条院に渡してしまおう」
と思して、
と思って
暁、かしこにものせむ、車の装束さながら、随人一人二人仰せおきたれ
夜明け前にあちらの屋敷にいるようにしたい、車はそのままで、随人を一人か二人手配しておきなさい」
とのたまふ
と仰せになる
うけたまはりて立ちぬ
惟光は承って、退出した。
惟光は、源氏のもとに参上して、屋敷の様子などを申し上げると、源氏は感慨深く思いを馳せるのだが、そうかといって、通い詰めるのもさすがに無意味な気がして、
軽々しうもてひがめたると、人もや漏り聞かむなどつつましければ、
誰かが漏れ聞いたら、軽々しく、常軌を逸している行動だと噂がたつのも避けたいので、
ただ、迎へてむと思す
方法はただひとつ、二条院にお迎えしようと考える。
御文はたびたび奉れたまふ
お手紙はたびたび送らせて、
暮るれば、例の大夫をぞ奉れたまふ
日が暮れれば惟光をお遣わしになる。
さはる事どものありて、え参り来ぬを、おろかにや
「差しさわりがありまして、参上できませんが、おろそかにしているとお考えではないでしょうか、」
などあり
などとお伝えする。
宮より明日にはかに御迎へにとのたまはせたりつれば、心あわたたしくてなむ、
「宮様より、急遽明日、迎えに来られるとのことでしたので、あわただしくしております。
年頃の蓬生(よもぎふ)を離(か)れなむも、さすがに心細く、さぶらふ人々も思ひ乱れて
長年住み慣れた蓬のお屋敷も、離れてしまうとなるとさすがに心細くて、仕える者たちも思い乱れております。」
と言少なに言ひて、をさをさあへしらはず、物縫ひ営むけはひなどしるければ、参りぬ
と言葉少なく、さほど相手にもせずに、縫い物などに精を出している様子なので、惟光は早々に帰参したのであった。
君は大殿におはしけるに、例の女君、とみにも対面したまはず、ものむつかしくおぼえたまひて、
源氏の君は左大臣邸にいらっしゃるが、例のごとく、女君はすぐにもお出ましにならない。所在なく思われて、
東琴(あづまごと)をすが掻きて、
東琴をすが掻きにし
常陸には田をこそつくれ、といふ歌を、声はいとなまめきて、すさびゐたまへり
「常陸には田をこそつくれ・・・・(田作りで多忙で、浮気などしていないのに・・・・)」という歌を、なまめかしい声で興じていた。
参りたれば、召し寄せて、有様問ひたまふ
惟光がやってきたので、お部屋に呼び寄せて様子を尋ねる。
しがじかなむ
これこれこうでございます
と聞こゆれば、くちをしう思して、
と報告を聞くと、おもしろくない、とお思いになって
かの宮に渡りなば、わざと迎へ出でむもすきずきしかるべし
「一度兵部卿の元に渡ってしまえば、引き取るにしても噂が立ち差し障りがあるだろう。
幼き人盗み出でたりと、もどき負ひなむ
幼い人を盗み出したと非難も受けるかもしれない。
その前に、しばし人にも口がためて、渡してむ
その前に、しばらくの間口止めをして、二条院に渡してしまおう」
と思して、
と思って
暁、かしこにものせむ、車の装束さながら、随人一人二人仰せおきたれ
夜明け前にあちらの屋敷にいるようにしたい、車はそのままで、随人を一人か二人手配しておきなさい」
とのたまふ
と仰せになる
うけたまはりて立ちぬ
惟光は承って、退出した。
2011年8月27日土曜日
かかる朝霧を知らでは寝るものか
わが御方にて、御直衣などは奉る
お部屋で直衣に着替えてから、
惟光ばかりを馬に乗せておはしぬ
惟光だけを馬に乗せていかれた。
門うち叩かせたまへば、心も知らなぬ者の開けたるに、御車をやをら引き入れさせて、
門を叩かせれば、何も知らない者が戸を開けたので、そのまま御車を引き入れさせて
大夫妻戸を鳴らしてしはぶけば、少納言聞き知りて、
大夫が妻戸を鳴らして咳払いをすると、少納言が伝え聞いて出てきた。
ここに、おはします
「ここに、源氏がおいででございます」
と言へば
と惟光が言うと
幼き人は御殿籠りてなむ、
姫は寝ております
などか、いと夜深うは出でさせたまへる
どうして、このような夜更けにいらしたのでしょうか
ともののたよりと思ひて言ふ
となにかのついでかと思って尋ねる。
宮へ渡らせたまふべかなるを、その前に聞こえおかなむとてなむ
兵部卿の元へお渡りになるそうですが、その前に申しておくことがありまして
何事にかはべらむ
何事でございましょう
いかにはかばかしき御いらへ聞こえさせたまはむ
どうやってはっきりとしたお答えが出せましょうか
とて、うち笑ひて居たり
と、笑いつつお返事をする。
君、入りたまへば、いとかたはらいたく、
源氏が、中にお入りになると、少納言は慌てた様子で、
打ち解けて、あやしき古人どものはべるに
「若くもない女房たちが、何も知らずに寝入っておりますので困ります」
まだおどろいたまはじな、いで、御目さましきこえむ
「まだ寝ていられるのですね、それでは起こして差し上げましょう
かかる朝霧を知らでは寝るものか
この様な朝霧に気付かずにいるのはもったいないですよ」
とて入りたまへば、
と、お入りになるので
や、ともえ聞こえず
一言も言葉がでない
君は何心もなく寝たまへるを、いだき驚かし給ふに、驚きて、宮の御迎へにおはしたる、と寝おびれて思したる
紫の君は無邪気に眠っていらっしゃるのを抱きあげて起こすと、目を覚まして、父宮が御迎えにいらしたと寝ぼけて思っている。
御髪(おぐし)かきつくろひなどし給ひて、
手で髪をといて差し上げて
いざ給へ、宮の御使ひにて参り来つるぞ
「さあ、おいでください、父宮の御使いで参ったのですよ」
とのたまふに、
という声で
あらざりけり、とあきれて、恐ろし、と思ひたれば、
父宮ではないとわかって、途方に暮れ、恐くなると、
あな、心憂、まろもおなじ人ぞ
「どうしてですか、わたしも父宮とかわりませんよ」
とて、かき抱きて出で給へば、
と、そのまま抱いて、部屋の外に出られると、
大夫、少納言などは、こはいかに
大夫や少納言などは、「どうされるのでしょう」
と聞こゆ
とお伺いする。
ここには常にもえ参らぬがおぼつかなければ、心安き所に、と聞こえしを、
「ここにはあまり来ることができないので心配です。わたしの所へおいでくださいとも申しましたが、
心憂く渡り給ふべかなれば、まして聞こえ難かるべければ
他へお移りになられるということならば、更に、お誘いしずらくなりますので
人ひとり参られよかし」
一人、ついてきてください
とのたまへば、
と仰せられれば、
心あわただしくて、
大変、慌てて
今日はいと便なくなんはべるべき、宮の渡らせ給はんには、いかさまにか聞こえやらむ
「今日は困ります、宮様がいらして、何と申し上げられましょうか
おのづから程経て、さるべきにおはしまさば、ともかうもはべりなむを、
自然と時が経ち、しかるべき時にいらっしゃれば、どのようにでもできますものを
いと思ひやりなき程のことにはべれば、さぶらふ人々くるしうはべるべし」
まだ、全くの子供ですから、仕える人々もどうしてよいのだかわからないでしょう」
と聞こゆれば、
と申しあげれば
よし、後には人は参りなむかし
「それなら、後で来なさい」
とて御車寄せさせ給へば、
と御車を入り口につけさせると
あさましう、いかやうにか、と思ひあへり
あきれて、どうなることか、とハラハラされる
若君も、あやし、と思して泣い給ふ
紫の君も、不安になって泣いていらっしゃる
少納言とどめ聞こえん方なければ、よべ縫ひし御衣ども引き下げて、みづからもよろしき衣着替へて乗りぬ
少納言はもうお止めできないものと分かり、昨夜から夜なべをして縫い几帳にかけてあった着物を引き落として、ご自分もこ綺麗に着替えられて、お車に乗りこんだ。
お部屋で直衣に着替えてから、
惟光ばかりを馬に乗せておはしぬ
惟光だけを馬に乗せていかれた。
門うち叩かせたまへば、心も知らなぬ者の開けたるに、御車をやをら引き入れさせて、
門を叩かせれば、何も知らない者が戸を開けたので、そのまま御車を引き入れさせて
大夫妻戸を鳴らしてしはぶけば、少納言聞き知りて、
大夫が妻戸を鳴らして咳払いをすると、少納言が伝え聞いて出てきた。
ここに、おはします
「ここに、源氏がおいででございます」
と言へば
と惟光が言うと
幼き人は御殿籠りてなむ、
姫は寝ております
などか、いと夜深うは出でさせたまへる
どうして、このような夜更けにいらしたのでしょうか
ともののたよりと思ひて言ふ
となにかのついでかと思って尋ねる。
宮へ渡らせたまふべかなるを、その前に聞こえおかなむとてなむ
兵部卿の元へお渡りになるそうですが、その前に申しておくことがありまして
何事にかはべらむ
何事でございましょう
いかにはかばかしき御いらへ聞こえさせたまはむ
どうやってはっきりとしたお答えが出せましょうか
とて、うち笑ひて居たり
と、笑いつつお返事をする。
君、入りたまへば、いとかたはらいたく、
源氏が、中にお入りになると、少納言は慌てた様子で、
打ち解けて、あやしき古人どものはべるに
「若くもない女房たちが、何も知らずに寝入っておりますので困ります」
まだおどろいたまはじな、いで、御目さましきこえむ
「まだ寝ていられるのですね、それでは起こして差し上げましょう
かかる朝霧を知らでは寝るものか
この様な朝霧に気付かずにいるのはもったいないですよ」
とて入りたまへば、
と、お入りになるので
や、ともえ聞こえず
一言も言葉がでない
君は何心もなく寝たまへるを、いだき驚かし給ふに、驚きて、宮の御迎へにおはしたる、と寝おびれて思したる
紫の君は無邪気に眠っていらっしゃるのを抱きあげて起こすと、目を覚まして、父宮が御迎えにいらしたと寝ぼけて思っている。
御髪(おぐし)かきつくろひなどし給ひて、
手で髪をといて差し上げて
いざ給へ、宮の御使ひにて参り来つるぞ
「さあ、おいでください、父宮の御使いで参ったのですよ」
とのたまふに、
という声で
あらざりけり、とあきれて、恐ろし、と思ひたれば、
父宮ではないとわかって、途方に暮れ、恐くなると、
あな、心憂、まろもおなじ人ぞ
「どうしてですか、わたしも父宮とかわりませんよ」
とて、かき抱きて出で給へば、
と、そのまま抱いて、部屋の外に出られると、
大夫、少納言などは、こはいかに
大夫や少納言などは、「どうされるのでしょう」
と聞こゆ
とお伺いする。
ここには常にもえ参らぬがおぼつかなければ、心安き所に、と聞こえしを、
「ここにはあまり来ることができないので心配です。わたしの所へおいでくださいとも申しましたが、
心憂く渡り給ふべかなれば、まして聞こえ難かるべければ
他へお移りになられるということならば、更に、お誘いしずらくなりますので
人ひとり参られよかし」
一人、ついてきてください
とのたまへば、
と仰せられれば、
心あわただしくて、
大変、慌てて
今日はいと便なくなんはべるべき、宮の渡らせ給はんには、いかさまにか聞こえやらむ
「今日は困ります、宮様がいらして、何と申し上げられましょうか
おのづから程経て、さるべきにおはしまさば、ともかうもはべりなむを、
自然と時が経ち、しかるべき時にいらっしゃれば、どのようにでもできますものを
いと思ひやりなき程のことにはべれば、さぶらふ人々くるしうはべるべし」
まだ、全くの子供ですから、仕える人々もどうしてよいのだかわからないでしょう」
と聞こゆれば、
と申しあげれば
よし、後には人は参りなむかし
「それなら、後で来なさい」
とて御車寄せさせ給へば、
と御車を入り口につけさせると
あさましう、いかやうにか、と思ひあへり
あきれて、どうなることか、とハラハラされる
若君も、あやし、と思して泣い給ふ
紫の君も、不安になって泣いていらっしゃる
少納言とどめ聞こえん方なければ、よべ縫ひし御衣ども引き下げて、みづからもよろしき衣着替へて乗りぬ
少納言はもうお止めできないものと分かり、昨夜から夜なべをして縫い几帳にかけてあった着物を引き落として、ご自分もこ綺麗に着替えられて、お車に乗りこんだ。
2011年8月26日金曜日
二条の院は近ければ
二条の院は近ければ、まだ明うならぬ程におはして、西の対に御車寄せており給ふ
二条院は近いので、まだ夜が明けないうちに到着して、西の対に車を寄せて降りた。
わか君をば、いとかろらかにかき抱きて、おろし給ふ
わか君をいとも軽くかかえて抱いて車から降ろされた。
少納言、
少納言
なほ、いと夢の心地してはべるを、いかにしはべるべき事にか
いまだに夢心地でどうすればいいのだか途方に暮れていて
とてやすらへば
と、車から降りずに、躊躇していると、
そは、心ななり、御みづから渡したてまつれば、かへりなむ、とあらば送りせむかし
それはご自由に、わか君はお連れしましたから、お帰りになるのなら、この車でお送り致しましょう
にはかにあさましう、胸も静かならず、宮の思しのたまはんこと、いかになり果て給ふべき御有様にか、
突然のことで、動揺していて、自分の鼓動が聞けるほどである上に、宮様がおっしゃられること、お嬢様がどのようになられるのか、
とてもかくても、たのもしき人々に後れ聞こえ給へるが、いみじき、とおもうふに、涙のとまらぬを、さすがにゆゆしければ、念じゐたり
とにもかくにも、頼みになるはずの方々に先立たれてしまったから、こんなにも不安なことばかりで可哀相、と思うと涙がとまらなくなるのだが、さすがに縁起が悪いので、我慢したのだった。
こなたは、住み給はぬ対なれば、御帳などもなかりけり
西の対の部屋は空き部屋だったので、几帳なども置いていなかった
惟光召して、御帳、御屏風など、あたりあたりしたてさせ給ふ
惟光を呼んで、几帳や屏風などをあたり一面にしたてさせた。
御几帳の帷子ひきおろし、御座(おまし)など、ただ、ひきつくろふばかりにてあれば、
几帳の帷子(かたびら)をひきおろして、にわかに御座所をおつくりして
ひんがしの対に御とのゐ物、召しにつかはして大殿籠もりぬ
東の対の部屋に、お休みになる時のお召し物を取りにいかせて、源氏はそのままここでお休みになる
わか君はいとむくつけう、いかにすることならむ、とふるはれ給へど、さすがに声立てても、え泣き給はず、
わか君は、君が悪くて、源氏は何をするつもりなのかしら、とふるえていらっしゃるのだが、さすがに声を立ててはお泣きにならない。
少納言がもとに寝ん
「少納言のところで寝たい」
とのたまふ声、いと若し
とおっしゃる声が若々しい。
今はさは、おほとのごもるまじきぞ
「今は、そのように一緒には寝ないのですよ」
と教えきこえ給へば、いと侘しくて、泣き臥し給へり
と諭すと、とても侘しくなってしまい、臥したまま泣いている
乳母は、うちも臥されず、ものも覚えず、起きゐたり
乳母は、うち臥すこともできず、物も考えることができずに、一晩中起きていた。
二条院は近いので、まだ夜が明けないうちに到着して、西の対に車を寄せて降りた。
わか君をば、いとかろらかにかき抱きて、おろし給ふ
わか君をいとも軽くかかえて抱いて車から降ろされた。
少納言、
少納言
なほ、いと夢の心地してはべるを、いかにしはべるべき事にか
いまだに夢心地でどうすればいいのだか途方に暮れていて
とてやすらへば
と、車から降りずに、躊躇していると、
そは、心ななり、御みづから渡したてまつれば、かへりなむ、とあらば送りせむかし
それはご自由に、わか君はお連れしましたから、お帰りになるのなら、この車でお送り致しましょう
にはかにあさましう、胸も静かならず、宮の思しのたまはんこと、いかになり果て給ふべき御有様にか、
突然のことで、動揺していて、自分の鼓動が聞けるほどである上に、宮様がおっしゃられること、お嬢様がどのようになられるのか、
とてもかくても、たのもしき人々に後れ聞こえ給へるが、いみじき、とおもうふに、涙のとまらぬを、さすがにゆゆしければ、念じゐたり
とにもかくにも、頼みになるはずの方々に先立たれてしまったから、こんなにも不安なことばかりで可哀相、と思うと涙がとまらなくなるのだが、さすがに縁起が悪いので、我慢したのだった。
こなたは、住み給はぬ対なれば、御帳などもなかりけり
西の対の部屋は空き部屋だったので、几帳なども置いていなかった
惟光召して、御帳、御屏風など、あたりあたりしたてさせ給ふ
惟光を呼んで、几帳や屏風などをあたり一面にしたてさせた。
御几帳の帷子ひきおろし、御座(おまし)など、ただ、ひきつくろふばかりにてあれば、
几帳の帷子(かたびら)をひきおろして、にわかに御座所をおつくりして
ひんがしの対に御とのゐ物、召しにつかはして大殿籠もりぬ
東の対の部屋に、お休みになる時のお召し物を取りにいかせて、源氏はそのままここでお休みになる
わか君はいとむくつけう、いかにすることならむ、とふるはれ給へど、さすがに声立てても、え泣き給はず、
わか君は、君が悪くて、源氏は何をするつもりなのかしら、とふるえていらっしゃるのだが、さすがに声を立ててはお泣きにならない。
少納言がもとに寝ん
「少納言のところで寝たい」
とのたまふ声、いと若し
とおっしゃる声が若々しい。
今はさは、おほとのごもるまじきぞ
「今は、そのように一緒には寝ないのですよ」
と教えきこえ給へば、いと侘しくて、泣き臥し給へり
と諭すと、とても侘しくなってしまい、臥したまま泣いている
乳母は、うちも臥されず、ものも覚えず、起きゐたり
乳母は、うち臥すこともできず、物も考えることができずに、一晩中起きていた。
2011年8月25日木曜日
明け行くままに見渡せば
明け行くままに見渡せば、御殿の造りざま、しつらひざま、更にもいはず、
夜が明けて行くままにあたりを見渡すと、お屋敷の造りや、様々なしつらいが、言うまでもなくすばらしく、
庭の砂(すなご)も、玉を重ねたらむやうに見えて、輝く心地するに、
庭の砂も、まるで、玉を重ねているように思われて、心がパッと明るくなるような心地がするので、
はしたなく思ひたれど、こなたには女房などもさぶらはざりけり
場違いなところに来たように思っているけれども、こちらには女房などは控えていない。
疎きまろうどなどの参る、折節の方なりければ、男どもぞ、御簾の外(と)にありける
たまの来客などのある時に迎え入れる部屋で、折節の時にのみ使うところなので、男どもが、御簾の外で控えている。
かく、人むかへ給へり、とほの聞く人は、誰ならむ、おぼろげにはあらじ、とささめく
ここに、誰か迎え入れた、とほのかに聞いた人は、どんな人を迎えたのだろうか、並々ではないのただろう、とささめいている。
御手水(てうづ)御粥など、こなたにまゐる
手洗いの水やお粥などを西の対にお持ちする。
日高う寝起き給ひて、人なくては悪しかるべきを、さるべき人々夕づけてこそは迎へさせ給はめ
源氏は、日が高くなってから起きて、「女房がないと不都合でしょう、呼びたい人がいれば、夕方くらいにお屋敷に迎えにいかせますよ」
とのたまひて、対に、童べ召しにつかはす
とおっしゃり、東の対に、小さな子たちを呼びにやる
小さきかぎり、殊更にまゐれ、とありければ、
「小さい子だけ、特別にいらっしゃい」との仰せであれば、
いとをかしげにて、四人参りたり
たいへんかわいらしい子が四人来た。
君は、御衣にまつはれて臥し給へるを、せめて起こして、
わか君は、お着物にくるまれるようにして、臥していらっしゃるのを催促して起きあがらせて、
かう、心憂くなおはせそ、すずろなる人はかうはありなむや、
「そんなに憂鬱にしていらっしゃるのはよくありませんよ、心のない人は、ここまでできませんよ
女は心やはらかなるなむよき
女は心が柔らかいのがいいのですよ」
など、今より教へ聞こえたまふ
などと、今から教えはじめる。
御かたちは、さし離れて見しよりも、いみじう清らにて、
わか君のお顔立ちは、さし離れて見たときよりも、たいへん可憐でで、
なつかしう、うち語らひつつ、をかしき絵・遊び物ども取りにつかはして見せたてまつり、御心につくべきことどもをしたまふ
源氏は親しみを込めてお相手をして、きれいな絵やおもちゃなどを取りにやらして、見せて差し上げるなど、興味をひきそうなことを色々として差し上げる。
やうやう起き出でて見たまふに、鈍色(にびいろ)のこまやかなあるが、うちなえたるどもを着て、何心なくうち笑みなどして居たまへるが、いと美しきに、
だんだん起き上がって見ていらっしゃるが、濃いねずみ色の柔らかいお着物を着て、無邪気にニコニコと座っていらっしゃるのが、大変可愛らしいので、
我もうち笑まれて、見たまふ
源氏もついつい微笑んで、一緒に見ていらっしゃる。
ひんがしの対に渡りたまへるに、立ち出でて、
源氏が東の対の方へ行かれると、若君は立って部屋の端近まで行ってみて
庭の木立、池の方など、のぞきたまへば、霜枯れの前栽、絵に描けるやうにおもしろくて、
庭の木立、池の方など、覗いて見てみると、霜枯れしている植木が、絵に描けるほどの風流さで、
見も知らぬ、四位・五位、こきまぜに、隙なう出で入りつつ、
見たことも話したこともないような四位や五位の人々が、さまざまに、途切れることもなく出入りしている様子で、
げに、をかしき所かな、とおぼす
本当にすてきな場所、とお思いになる。
御屏風どもなど、いと、をかしき絵を見つつ、慰めておはするもはかなしや
屏風絵なども色々と趣向をこらしたものを見ると、心がなごんでくるのだから、たあいのないご様子なのである。
夜が明けて行くままにあたりを見渡すと、お屋敷の造りや、様々なしつらいが、言うまでもなくすばらしく、
庭の砂(すなご)も、玉を重ねたらむやうに見えて、輝く心地するに、
庭の砂も、まるで、玉を重ねているように思われて、心がパッと明るくなるような心地がするので、
はしたなく思ひたれど、こなたには女房などもさぶらはざりけり
場違いなところに来たように思っているけれども、こちらには女房などは控えていない。
疎きまろうどなどの参る、折節の方なりければ、男どもぞ、御簾の外(と)にありける
たまの来客などのある時に迎え入れる部屋で、折節の時にのみ使うところなので、男どもが、御簾の外で控えている。
かく、人むかへ給へり、とほの聞く人は、誰ならむ、おぼろげにはあらじ、とささめく
ここに、誰か迎え入れた、とほのかに聞いた人は、どんな人を迎えたのだろうか、並々ではないのただろう、とささめいている。
御手水(てうづ)御粥など、こなたにまゐる
手洗いの水やお粥などを西の対にお持ちする。
日高う寝起き給ひて、人なくては悪しかるべきを、さるべき人々夕づけてこそは迎へさせ給はめ
源氏は、日が高くなってから起きて、「女房がないと不都合でしょう、呼びたい人がいれば、夕方くらいにお屋敷に迎えにいかせますよ」
とのたまひて、対に、童べ召しにつかはす
とおっしゃり、東の対に、小さな子たちを呼びにやる
小さきかぎり、殊更にまゐれ、とありければ、
「小さい子だけ、特別にいらっしゃい」との仰せであれば、
いとをかしげにて、四人参りたり
たいへんかわいらしい子が四人来た。
君は、御衣にまつはれて臥し給へるを、せめて起こして、
わか君は、お着物にくるまれるようにして、臥していらっしゃるのを催促して起きあがらせて、
かう、心憂くなおはせそ、すずろなる人はかうはありなむや、
「そんなに憂鬱にしていらっしゃるのはよくありませんよ、心のない人は、ここまでできませんよ
女は心やはらかなるなむよき
女は心が柔らかいのがいいのですよ」
など、今より教へ聞こえたまふ
などと、今から教えはじめる。
御かたちは、さし離れて見しよりも、いみじう清らにて、
わか君のお顔立ちは、さし離れて見たときよりも、たいへん可憐でで、
なつかしう、うち語らひつつ、をかしき絵・遊び物ども取りにつかはして見せたてまつり、御心につくべきことどもをしたまふ
源氏は親しみを込めてお相手をして、きれいな絵やおもちゃなどを取りにやらして、見せて差し上げるなど、興味をひきそうなことを色々として差し上げる。
やうやう起き出でて見たまふに、鈍色(にびいろ)のこまやかなあるが、うちなえたるどもを着て、何心なくうち笑みなどして居たまへるが、いと美しきに、
だんだん起き上がって見ていらっしゃるが、濃いねずみ色の柔らかいお着物を着て、無邪気にニコニコと座っていらっしゃるのが、大変可愛らしいので、
我もうち笑まれて、見たまふ
源氏もついつい微笑んで、一緒に見ていらっしゃる。
ひんがしの対に渡りたまへるに、立ち出でて、
源氏が東の対の方へ行かれると、若君は立って部屋の端近まで行ってみて
庭の木立、池の方など、のぞきたまへば、霜枯れの前栽、絵に描けるやうにおもしろくて、
庭の木立、池の方など、覗いて見てみると、霜枯れしている植木が、絵に描けるほどの風流さで、
見も知らぬ、四位・五位、こきまぜに、隙なう出で入りつつ、
見たことも話したこともないような四位や五位の人々が、さまざまに、途切れることもなく出入りしている様子で、
げに、をかしき所かな、とおぼす
本当にすてきな場所、とお思いになる。
御屏風どもなど、いと、をかしき絵を見つつ、慰めておはするもはかなしや
屏風絵なども色々と趣向をこらしたものを見ると、心がなごんでくるのだから、たあいのないご様子なのである。
2011年8月24日水曜日
蔵野の露わけわぶる草のゆかり
君は、二三日、内裏へも参り給はで、この人をなつけ語らひ聞こへたまふ
源氏は、2~3日、宮中へも参上しないで、この人がなつくようにと、いろいろとお話しをされる。
やがて本にもとおあぼすにや、手習・絵など、さまざまに書きつつ、見せたてまつり給ふ
そのままお手本にとお思いになってか、お習字や絵など、様々に書いてはお見せして、
いみじうをかしげに、かき集めたまへり
すると見事な作品がだんだんと集まってくる。
武蔵野といへばかこたれぬ、と、むらさきの紙に書いたまへる墨つきの、いと殊なるを取りて、見ゐたまへり
そんな作品の中から、「武蔵野といったら思い出す人は~」というように、紫色の紙に書いてある墨色が非常に上品なものを手に取って見入っていらっしゃる。
少し小さくて
少し小さな字で、
根は見ねど、あはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを、
「根は見えないけれども、武蔵野に自生して紫の染料として重宝されている草の、みんなが素敵だと思ってなかなか近づくことのできない、紫草のゆかりなのですね」
とあり
と書いてある。
いで君も書いたまへ
「さああなたもお書きください」
とあれば、
と言うと、
まだようは書かず
「まだうまくは書けません」
とて、見上げたまへるが、何心なくうつくしげなれば、うちほほ笑みて
と言って見上げるお顔が、あどけなくて可愛らしいので、源氏も自然と微笑まれて、
よからねど、むげに書かぬこそわろけれ、教へきこえむかし
「上手じゃないからといって、全然書かないのはいけませんよ、書き方をお教えしましょう」
とのたまへば、うちそばみて書いたまふ手つき、筆とりたまへる様の幼げなるも、らうたうのみおぼゆれば、心ながらあやしと思す
と言うと、こちらに横顔を向けてお書きになる手つき、筆をとる様子があどけないのも、いとおしいばかりに感じ入れば、我ながら不思議なことに思われる。
書きそこなひつ
「書き間違えました」
と恥ぢて、隠したまふを、せめて見たまへば、
と恥じらってお隠しになったものを、無理に手にとって見てみると
かこつべきゆゑを知らねばおぼつかな、いかなる草のゆかりなるらむ
「どうして思い出すのか理由はわかりません。 紫草は、どんな草なのでしょう? わたしとどんな関係があるんでしょう?」
といと若けれど、生い先見えて、ふくよかに書いたまへり
とたいへん幼い字だけれども、この先が楽しみな感じで、ふくよかに書いている。
故尼君のにぞ似たりける
亡くなった尼君の手によく似ている。
今めかしき手本習はば、いとよう書いたまひてむ、と見たまふ
今流行りの字体をお手本にして習えば、すごくよくなるだろうとお考えになる。
雛など、わざと屋どもつくりつづけて、もろともに遊びつつ、こよなきもの思ひの紛らはしなり
お人形や、わざわざその家までも作り並べて、ご一緒に遊んだりしていると、この上なく深いもの思いからも、気が紛れてしまうのだった。
源氏は、2~3日、宮中へも参上しないで、この人がなつくようにと、いろいろとお話しをされる。
やがて本にもとおあぼすにや、手習・絵など、さまざまに書きつつ、見せたてまつり給ふ
そのままお手本にとお思いになってか、お習字や絵など、様々に書いてはお見せして、
いみじうをかしげに、かき集めたまへり
すると見事な作品がだんだんと集まってくる。
武蔵野といへばかこたれぬ、と、むらさきの紙に書いたまへる墨つきの、いと殊なるを取りて、見ゐたまへり
そんな作品の中から、「武蔵野といったら思い出す人は~」というように、紫色の紙に書いてある墨色が非常に上品なものを手に取って見入っていらっしゃる。
少し小さくて
少し小さな字で、
根は見ねど、あはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを、
「根は見えないけれども、武蔵野に自生して紫の染料として重宝されている草の、みんなが素敵だと思ってなかなか近づくことのできない、紫草のゆかりなのですね」
とあり
と書いてある。
いで君も書いたまへ
「さああなたもお書きください」
とあれば、
と言うと、
まだようは書かず
「まだうまくは書けません」
とて、見上げたまへるが、何心なくうつくしげなれば、うちほほ笑みて
と言って見上げるお顔が、あどけなくて可愛らしいので、源氏も自然と微笑まれて、
よからねど、むげに書かぬこそわろけれ、教へきこえむかし
「上手じゃないからといって、全然書かないのはいけませんよ、書き方をお教えしましょう」
とのたまへば、うちそばみて書いたまふ手つき、筆とりたまへる様の幼げなるも、らうたうのみおぼゆれば、心ながらあやしと思す
と言うと、こちらに横顔を向けてお書きになる手つき、筆をとる様子があどけないのも、いとおしいばかりに感じ入れば、我ながら不思議なことに思われる。
書きそこなひつ
「書き間違えました」
と恥ぢて、隠したまふを、せめて見たまへば、
と恥じらってお隠しになったものを、無理に手にとって見てみると
かこつべきゆゑを知らねばおぼつかな、いかなる草のゆかりなるらむ
「どうして思い出すのか理由はわかりません。 紫草は、どんな草なのでしょう? わたしとどんな関係があるんでしょう?」
といと若けれど、生い先見えて、ふくよかに書いたまへり
とたいへん幼い字だけれども、この先が楽しみな感じで、ふくよかに書いている。
故尼君のにぞ似たりける
亡くなった尼君の手によく似ている。
今めかしき手本習はば、いとよう書いたまひてむ、と見たまふ
今流行りの字体をお手本にして習えば、すごくよくなるだろうとお考えになる。
雛など、わざと屋どもつくりつづけて、もろともに遊びつつ、こよなきもの思ひの紛らはしなり
お人形や、わざわざその家までも作り並べて、ご一緒に遊んだりしていると、この上なく深いもの思いからも、気が紛れてしまうのだった。
2011年8月23日火曜日
かのとまりにし人々
かのとまりにし人々、宮渡りたまひて尋ねきこえたまひけるに、聞こえやる方なくてぞ、わびあへりける
あちらの屋敷に留まった女房たちは、宮様がいらっしゃり、若君の所在を尋ねたのだが、お答えできかねて皆困っている。
しばし人に知らせじ、と君ものたまひ、少納言も思ふことなれば、せちに口がためやりたり
しばらくは誰にも知らせないように、と源氏もおっしゃり、少納言もそのように思い、厳重な口がためを言い送った。
ただ、行方も知らず、少納言が率て隠しきこえたる、とのみ聞こえさするに、
ただ、「行方は知らせずに、少納言が姫様をつれて、どこかにお隠れでいらっしゃいます」とだけ申し上げさせたので、
宮も言ふかひなう思して、
宮様も、仕方なく思われて、
故尼君もかしこに渡りたまはむことを、いとものしと思したりしことなれば、
「亡くなった尼君も、姫君があちらの屋敷に行かれるのを、たいへんなことと思っていらっしゃったことなので、
乳母の、いとさし過ぐしたる心ばせのあまり、
乳母が、行き過ぎた心遣いのあまりに、
おいらかに渡さむを便ばしなどは言はで、心にまかせて、率てはふらかしつるなめり
穏便に、お移しするのは困ります、などと断りを言わずに、心にまかせて連れ出して、放り出してしまったようなものだ。」
と、泣く泣く帰りたまひぬ
と、泣く泣くお帰りになった。
もし聞き出でたてまつらば告げよ
「もし行方がわかったならば、知らせておくれ」
とのたまふもわづらはしく
とおっしゃられるのも気がおける
僧都の御許にも尋ねきこえたまへど、あとはかなくて、
僧都のもとにもお尋ねになるのだか、まったく手がかりもなくて、
あたらしかりし御かたちなど、恋しくかなしと思す
本当にすばらしいご容姿であったななどと、面影を思い焦がれ、せつない気持ちでいる。
北の方も、母君を憎しと思ひきこえたまひける心も失せて、わが心にまかせつべう思しけるに違いぬるは、くちをしう思しけり
北の方も、姫の母君を憎しと思っていた気持ちも消えて、自分の心から娘を引き取ろうと考えていたのに、そうとも叶わなかったので、残念に思っている。
あちらの屋敷に留まった女房たちは、宮様がいらっしゃり、若君の所在を尋ねたのだが、お答えできかねて皆困っている。
しばし人に知らせじ、と君ものたまひ、少納言も思ふことなれば、せちに口がためやりたり
しばらくは誰にも知らせないように、と源氏もおっしゃり、少納言もそのように思い、厳重な口がためを言い送った。
ただ、行方も知らず、少納言が率て隠しきこえたる、とのみ聞こえさするに、
ただ、「行方は知らせずに、少納言が姫様をつれて、どこかにお隠れでいらっしゃいます」とだけ申し上げさせたので、
宮も言ふかひなう思して、
宮様も、仕方なく思われて、
故尼君もかしこに渡りたまはむことを、いとものしと思したりしことなれば、
「亡くなった尼君も、姫君があちらの屋敷に行かれるのを、たいへんなことと思っていらっしゃったことなので、
乳母の、いとさし過ぐしたる心ばせのあまり、
乳母が、行き過ぎた心遣いのあまりに、
おいらかに渡さむを便ばしなどは言はで、心にまかせて、率てはふらかしつるなめり
穏便に、お移しするのは困ります、などと断りを言わずに、心にまかせて連れ出して、放り出してしまったようなものだ。」
と、泣く泣く帰りたまひぬ
と、泣く泣くお帰りになった。
もし聞き出でたてまつらば告げよ
「もし行方がわかったならば、知らせておくれ」
とのたまふもわづらはしく
とおっしゃられるのも気がおける
僧都の御許にも尋ねきこえたまへど、あとはかなくて、
僧都のもとにもお尋ねになるのだか、まったく手がかりもなくて、
あたらしかりし御かたちなど、恋しくかなしと思す
本当にすばらしいご容姿であったななどと、面影を思い焦がれ、せつない気持ちでいる。
北の方も、母君を憎しと思ひきこえたまひける心も失せて、わが心にまかせつべう思しけるに違いぬるは、くちをしう思しけり
北の方も、姫の母君を憎しと思っていた気持ちも消えて、自分の心から娘を引き取ろうと考えていたのに、そうとも叶わなかったので、残念に思っている。
2011年8月22日月曜日
いと様かわりたるかしづきぐさなり
やうやう人集まりぬ
だんだんと仕える者も集まってくる。
御遊びがたきのわらわべ、稚児ども、いとめづらかに今めかしき御有様どもなれば、思ふことなくて遊びあへり
遊び相手の童べや、幼児など、源氏と紫の君のご関係などなんとも思うことがなく、ご一緒に遊んでいらっしゃる。
君は、男君のおはせずなどしてさうざうしき夕暮れなどばかりぞ、尼君を恋ひきこえたまひて、うち泣きなどしたまへど、
紫の君は、源氏がいらっしゃらずなどして、さみしくなった夕暮れなどには尼君を恋しがって泣いていることもあるけれども、
宮をばことに思ひ出できこえたまはず
兵部卿の宮を特に思い出すことはない。
もとより見ならひきこえたまへでならひたまへれば、今はただこの後の親をいみじう睦びまつはしきこえたまふ
前々から、離れてお暮らしになって、そういうものと思っていらしたので、今はただこの後の親にたいそう慣れ親しんでいらっしゃる。
ものよりおはすればまづ出でむかひて、あはれにうち語らひ、御懐に入りゐて、いささかうとく恥づかしとも思ひたらず
外からお帰りになるとすぐにお迎えに出られて、楽しそうにお話をして、御ふところに入っていて多少なりとも、遠慮したり、恥ずかしがったりすることもない。
さる方にいみじうらうたきわざなりけり
そういう面ではたいへん可愛らしいことであった。
さかしら心あり、何くれとむつかしき筋になりぬれば、わが心地もすこしたがふふしも出で来やと、心おかれ、
女が利口ぶったり、出しゃばりな心があったり何くれとやりにくい様子であると、こちらの気持ちの中にも少し違う考えも出てくるのか、その女に心おきなく接することができず、
人も恨みがちに、思ひのほかのこと、おのづから出で来るを、
すると相手も恨みがちになり、思いもよらないことが自然と出てくるのだが、
いとをかしきもてあそびなり
紫の君は全くそんなことがない、理想的な遊び相手である。
むすめなど、はた、かばかりになれば、心やすくうちふるまひ、隔てなき様に臥し起きなどは、えしもすまじきを、
自分の娘であっても。このくらいの年になると、心を許して隔てなく、一緒に寝起きしたりなどは、できないものであろうが、
これは、いと様かわりたるかしづきぐさなり、と思ほいためり
紫の君は、まったく様子が違うが、大切にお育てする娘である、と思っているのである。
だんだんと仕える者も集まってくる。
御遊びがたきのわらわべ、稚児ども、いとめづらかに今めかしき御有様どもなれば、思ふことなくて遊びあへり
遊び相手の童べや、幼児など、源氏と紫の君のご関係などなんとも思うことがなく、ご一緒に遊んでいらっしゃる。
君は、男君のおはせずなどしてさうざうしき夕暮れなどばかりぞ、尼君を恋ひきこえたまひて、うち泣きなどしたまへど、
紫の君は、源氏がいらっしゃらずなどして、さみしくなった夕暮れなどには尼君を恋しがって泣いていることもあるけれども、
宮をばことに思ひ出できこえたまはず
兵部卿の宮を特に思い出すことはない。
もとより見ならひきこえたまへでならひたまへれば、今はただこの後の親をいみじう睦びまつはしきこえたまふ
前々から、離れてお暮らしになって、そういうものと思っていらしたので、今はただこの後の親にたいそう慣れ親しんでいらっしゃる。
ものよりおはすればまづ出でむかひて、あはれにうち語らひ、御懐に入りゐて、いささかうとく恥づかしとも思ひたらず
外からお帰りになるとすぐにお迎えに出られて、楽しそうにお話をして、御ふところに入っていて多少なりとも、遠慮したり、恥ずかしがったりすることもない。
さる方にいみじうらうたきわざなりけり
そういう面ではたいへん可愛らしいことであった。
さかしら心あり、何くれとむつかしき筋になりぬれば、わが心地もすこしたがふふしも出で来やと、心おかれ、
女が利口ぶったり、出しゃばりな心があったり何くれとやりにくい様子であると、こちらの気持ちの中にも少し違う考えも出てくるのか、その女に心おきなく接することができず、
人も恨みがちに、思ひのほかのこと、おのづから出で来るを、
すると相手も恨みがちになり、思いもよらないことが自然と出てくるのだが、
いとをかしきもてあそびなり
紫の君は全くそんなことがない、理想的な遊び相手である。
むすめなど、はた、かばかりになれば、心やすくうちふるまひ、隔てなき様に臥し起きなどは、えしもすまじきを、
自分の娘であっても。このくらいの年になると、心を許して隔てなく、一緒に寝起きしたりなどは、できないものであろうが、
これは、いと様かわりたるかしづきぐさなり、と思ほいためり
紫の君は、まったく様子が違うが、大切にお育てする娘である、と思っているのである。
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