かしこには、今日しも宮渡りたまへり
大納言邸では、源氏がお帰りになったまさにその日に宮様がおいでになられる。
年頃よりもこよなう荒れまさり、広うものふりたる所の、いとど人少なにさびしければ、見わたしたまひて、
以前よりも更に荒れ放題となって、広い敷地に古びた屋敷で、住む人も少なくさみしいばかりなのを見渡して、
かかる所には、いかでかしばしも、幼き人のすぐしたまはむ
「こんなところでは、幼い子どもが住んでいるのは少しの間でもたいへんでしょう、
なほ、かしこに渡したてまつりてむ
やはり、お屋敷にお移りくださいませ
何のところせきほどにもあらず、乳母は曹司などしてさぶらひなむ
何も窮屈なところではありませんよ、乳母はひとつ部屋がありますから、そこでお仕えしてください。
君は若き人々あれば、もろともに遊びて、いとようものしたまひなむ
若君には、同じくらいの年の子がいますから、一緒に遊んで、楽しく過ごせるはずですよ」
などのたまふ
などと、おっしゃる。
近う呼び寄せたてまつりたまへるに、かの御移り香の、いみじう艶に染みかへらせたまへれば、
近くお呼び寄せになると、源氏のお召し物に焚き染められた御香が移り香となって、たいそう優雅に匂い漂うので、
をかしの御匂ひや、御衣(おんぞ)はいと萎えて
「すばらしい香りですね、お着物は萎えていらっしゃるけれども・・・」
と心苦しげに思いたり
と心苦しげにお感じになっていらっしゃる。
年頃も、あつしくさだすぎたまへる人に添ひたまへるよ
「何年もの間、ご病気で、若くもない尼上と、ご一緒にいらっしゃいましたね。
かしこに渡りて見ならしたまへなどものせしを、
あちらにお渡り頂いて、早く馴染んでくださいませとも申し上げておりましたが、
あやしう疎みたまひて、人も心置くめりしを、
なぜだかお疎みになられていらしたので、あちらのお方も気兼ねをされているようでしたので・・・
かかるをりにしもものしたまはむも、心苦し
このような折に、お移り頂くというのも心苦しくはありますが、」
などのたまへば、
などとおっしゃるので、
何かは、心細くとも、しばしは、かくておはしましなむ
「なんでもございません、心細くあっても、しばらくはここでお過ごしになるでしょう。
すこしものの心思し知りなむに渡らせたまはむこそ、よくははべるべけれ
もう少しものがわかるようになってから、お移りになるのがいいでしょう」
と聞こゆ
と申し上げる
夜昼恋ひきこえたまふに、はかなきものも聞こしめさず
「夜昼となく尼上を恋しがっていらっしゃって、ちょっとしたものも召し上がらないのです」
とて、げにいといたう面痩せたまへれど、いとあてにうつくしく、なかなか見えたまふ
と言って、たしかに、ふっくらしていたお顔が面痩せしていらっしゃるけれども、かえってそれが上品で可愛らしく見える。
何かさしも思す、今は世に亡き人の御事はかひなし、おのれあれば
「どうして、そんなにまでも思い詰めるのですか?今はもう亡き人のことを思っても仕方ありませんよ、わたしがいるでしょ」
など語らひきこえたまひて、暮るれば、帰らせたまふを、
などと語り聞かせて、日が暮れたので、もうお帰りになるのを、
いと心細しと思いて泣いたまへば、宮うち泣きたまひて、
たいへん心細くなり、お泣きになるので、宮様ももらい泣きされて
いとかう思ひな入りたまひそ
「こんなにまで、思い詰めないでください
今日明日渡したてまつらむ
今日か明日にでもお迎えにきましょう」
など、かへすがへすこしらへおきて、出でたまひぬ
などと、返すがえすなだめおいてお帰りになる
なごりも慰めがたう泣きゐたまへり
名残のさみしさも慰めがたく、ずっと泣いていらっしゃる。
行く先の身のあらむことなどまでも思し知らず、
これから自分がどうなることかなどは思いも及ばず、
ただ年頃たち離るるをりなうまつはしならひて、今は亡き人となりたまひにける、と思すがいみじきに、
ただ、この何年か、離れることなく、お側でまとわりつくようにして慣れていた尼上が、今は亡き人となってしまった、と思うと
幼き御心地なれど、胸つとふたがりて、例のやうにも遊びたまはず、
幼い心地にも胸がふとふさがって、いつものようにも遊ぶ気にならず、
昼はさてもまぎらはしたまふを、夕暮れとなれば、いみじく屈したまへば、
昼間はそれでも気が紛れているが、夕暮れにもなれば、どうしようもなく気分が滅入ってしまうので、
かくてはいかでか過ごしたまはむ、と慰めわびて、乳母も泣きあへり
こんな風では、どうやってこの先暮らしていけるのかしら、と慰めかねて、乳母も一緒に泣くのであった。