2011年9月7日水曜日

君は心地もいとなやましきに

君は心地もいとなやましきに、雨すこしうちそそき、山風ひややかに吹きたるに、滝のよどみもまさりて、音高う聞こゆ
源氏は気分もすぐれない折に、小雨が降りしきり、山風が冷えびえと吹き降ろす音がしてきて、滝壺の水かさも増したように、水の音が轟々と聞こえてくる。

すこしねぶたげなる読経の絶え絶えすごく聞こゆるなど、すずろなる人も、所がら、ものあはれなり、まして思しめぐらすこと多くてまどろませたまはず
少し眠たげな読経の声がとぎれとぎれに聞こえてくるのが身にしみて、何人であっても場所柄の雰囲気にのみこまれてしまいそうなものの気配であるのに、ましてや源氏には思い巡らすことが多く、つゆもまどろむことができない。

初夜といひしかども、夜もいたう更けにけり
初夜と言っていたが、夜も相当更けてしまっている。

内にも人の寝ぬけはひしるくて、
奥のほうでも、人が寝ないで起きている気配がはっきりと感じられる。

いと忍びたれど、数珠の脇息にひき鳴らさるる音ほの聞こえ、なつかしううちそよめく音なひ、あてはかなりと聞きたまひて、
音を立てない様にはしているようではあるが、数珠が脇息に触れるのが微かに聞えてきて、そよそよと衣が擦れる音がなつかしく感じられる気配などはたいへん優雅である。

ほどもなく近ければ、外に立てわたしたる屏風をすこし引きあけて、扇を鳴らしたまへば、
気配を伺っているところが程なく近いところなので、間仕切りの屏風が幾双か立てわたしてある隙間を少し引き開けて、手元の扇を鳴らしてみると、

おぼえなき心地すべかめれど、聞き知らぬやうにやとて、ゐざり出づる人あなり
思いがけないことの気がするけれども、聞いておいて知らないふりもできないと思い、座ったまま寄ってくる人があった。

すこし退きて、「あやし、僻耳にや」とたどるを聞きたまひて、
少しさがり「なにかしら、空耳かしら」と探している様子をお察しになって、

仏の御しるべは、暗きに入りてもさらに違ふまじかなるものを、
「仏の道しるべは、暗闇にも決して迷うことはないものですのに、」

とのたまふ御声のいと若うあてなるに、うち出でむ声づかひも恥づかしけれど、
と仰せになられる声が、大変若くて気品があるので、言い出そうとする声使いが恥かしく感じられるが、

いかなる方の御しるべにか、おぼつかなく、と聞こゆ
「どういった道しるべでしょうか、雲を掴むようなことでございます。」と申し上げる。

げに、うちつけなり、とおぼめきたまむもことわりなれど、初草の若葉のうへを見つるより旅寝の袖もつゆぞかわかぬ、と聞こえたまひてむや
「たしかに唐突なこととあやしがられるでしょうが、『若草の若葉に目を留めてからというもの、旅の寝所で涙で袖が濡れてしまうのでございます』とお取り次ぎくださいませ」

とのたまふ
と仰せになる。

さらにかやうの御消息うけたまはり分くべき人もものしたまはぬ様はしろしめしたりげなるを、誰にかは、と聞こゆ
「このようなお歌を承るような姫君などはおりませんことは、ご承知おきくださっているはずですのに、誰にお伝えしたらよろしいでしょうか」と申し上げる。

おのづから、さるやうありて聞こゆるならむ、と思ひなしたまへかし、とのたまへば、入りて聞こゆ
「訳があって申しているのだろう、とご推察ください」とおっしゃられるので、奥に入りお伝えする。

あな、今めかし、この君や世づいたるほどにおはするとぞ思すらむ、さるにては、かの若草を、いかで、聞いたまへることぞ
「まあ、なんて今風のお歌でしょう、ここの姫君を年頃の娘と勘違いされているのかしら、それにしても、あの若草の歌をどうやってお聞きになったのでしょうね」

とさまざまあやしきに、心乱れて、久しうなれば、情けなしとして
と様々に不思議なことばかりで、いろいろと考えをめぐらし、ずいぶん時間がたってしまいそれも失礼であるので、

枕ゆふ今宵ばかりの露けさを深やま(みやま)の苔にくらべざらなむ
「旅の枕での今宵だけの寂しさを、山籠もりの苔の衣(僧衣)の露けさには比べられないものでしょう」

干がたうはべるものを
こちらの袖は乾くあてはございませんものを、

と聞こえたまふ
と返歌をされる。

かうやうの伝なる御消息は、まださらに聞こえ知らず、ならはぬことになむ、かたじけなくとも、かかるついでにまめまめしう聞こえさすべきことなむ
「このような人づてのお話しは今までにないことで慣れておりません、恐れ入りますが、このようなついでに真面目にお話させて頂きたいことがあります」

と聞こえたまへれば、尼君、
と申し上げると、尼君は、

僻事、聞きたまへるならむ、いと恥づかしき御けはひに、何事をかはいらへきこえむ
「何か、間違ったことをお聞きになられたのでしょう、ご立派な方にどうお答えすればいいかしら、」

とのたまへば、
とおっしゃると、

はしたなうもこそ思せ
「お時間が経ちすぎますと、」

と人々聞こゆ
と女房たちが促す。

げに、若やかなる人こそうたてもあらめ、まめやかにのたまふ、かたじけなし
「そうですね、もう私は若くはないのだから躊躇はございません。真面目におっしゃって頂いているのにお答えしなくては畏れ多いことです」

とて、ゐざり寄りたまへり
と言い、座ったままで静かに進んでいった。

うちつけに、あさはかなりとご覧ぜられぬべきついでなれど、心にはさもおぼえはべらねば、仏はおのづから
「突然のことですので、浅はかな心であるという印象を持たれるのは当然ですが、私自身はそうは思っておりません、仏はおのずからご存知なはずで、」

とて、おとなおとなしう、恥づかしげなるにつつまれて、とみにもえうち出でたまはず
と、尼君の大人の雰囲気に気後れがして、慎ましく感じられて、即座に言葉が出ずに言いよどんでしまう。

げに、思ひたまへ寄りがたきついでに、かくまでのたまはせ、聞こえさするも、浅くはいかが
「本当に、思いもよらぬ折にここまで仰せになられているのですからどうして浅はかなどとは・・・・・」

とのたまふ
とおっしゃる。

あはれにうけたまはる御有様を、かの過ぎたまひにけむ御かはりに思しないてむ、
「先程お話いただきました姫君の境遇を感銘深く承りましたが、その、お亡くなりになった方の代わりと思って頂きたいのです」

言ふかひなきほどの齢(よはひ)にて、睦ましかるべき人にも立ちおくれはべりにければ、あやしう浮きたるやうにて、年月をこそ重ねはべれ
「私も、年端もいかない幼少の頃に親しみなつくべき親に先立たれたために、心が宙に浮いたように年月を重ねてまいりましたので、」

同じようにものしたまふなるを、たぐひになさせたまへ
「同じようでいらっしゃるのであれば、わたくしと同じ境遇の故にとお考えください」

といと聞こえまほしきを、かかるをりはべりがたくてなむ、思されむところをも憚らず、うち出ではべりぬる
「・・・と申し上げたかったのでございますが、このような機会はめったにないので、お考えになるだろうことも憚らずに申し上げた次第でございます」

と聞こえたまへば、
と源氏が申し上げると、

いとうれしう思ひたまへぬべき御ことながらも、聞こしめし僻めたることなどやはべらむ、とつつましうなむ
「大変嬉しく思うべきことながらも、間違ってお聞きになられてはいないのかと憚られ、たいへん恥ずかしゅうございます」

あやしき身ひとつを頼もし人にする人なむはべれど、いとまだ言ふかひなきほどにて、ご覧じ許さるる方もはべりがたげなれば、えなむ承りとどめられざりける
「わたくし一人を頼りとしている娘はありますが、まだほんの子供でございまして、お目にかけるほどのものではございませんので、そのようなお話はお受け致しかねるものでございます」

とのたまふ
と申し上げる。

みなおぼつかなからず承るものを、ところせう思し憚らで、思ひたまへ寄る様ことなる心のほどをご覧ぜよ
「すべてご事情は把握して申し上げているものですから、そんなに窮屈にお考えにならずに、心が惹かれて、愛着を感じているわたくしの、そのままの心で判断して頂きたいのです」

と聞こえたまへど、いと似げなきことをさも知らでのたまふ、と思して、心とけたる御いらへもなし
と源氏が申し上げても、年が不釣合いであるのをそれほど知らずにに仰せになられているのであろうと思われて、気を許した御返事もないのであった。

僧都おはしぬれば、
僧都が戻ってきたので、

よし、かう聞こえそめはべりぬれば、いと頼もしうなむ、とて押したてたまひつ
「まあ、こうしてお話の糸口がみつかりましたので、期待しております」と言って屏風をお閉めになられた。