藤壺の宮、なやみたまふことありて、まかでたまへり
藤壺の宮は、ご病気をされて、宮中を退出されていた。
上のおぼつかながり嘆ききこえたまふ御気色も、いといとほしう見たてまつりながら、
帝がご心配されているご様子も並々でなく、いたわしくお見受けしながらも、
かかるをりだにと、心もあくがれまどひて、
このような折にでもないと・・・と、魂が肉体を離れたように彷徨い迷って、
いづくにもいづくにも参うでたまはず、内裏にても里にても、昼はつれづれとながめ暮らして、
あちらこちらの通うべき処はどこともお伺いせずに、宮中でも里にいても昼間はぼんやりとだけしていて、
暮るれば、王命婦を責め歩きたまふ
日が暮れると、藤壺の女官の王命婦を追いかけ廻して密会の取次ぎをせまる。
いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たてまつるほどさへ、現とはおぼえぬぞわびしきや
いったいどうやって手引きをしたのだろうか、不義の密通を果たして、やっとのことでお目にかかることができたのにもかかわらず現実のこととは思えない、ただわびしいのである。
宮も、あさましかりしを思し出づるだに、世とともの御もの思ひなるを、
宮様も、あさましかったありしの逢瀬の時を思い出すことでさえ、寝ても覚めても心から離れないことであったのに、
さてだにやみなむ、と深う思したるに、いと憂くて、いみじき御気色なるものから、
それ1回きりで終わりにしよう、と深く心に思い至っていたのに情けなくて、たいへん硬いご様子ではあるが、
なつかしうらうたげに、さりとてうちとけず、心深う恥づかしげなる御もてなしなどの、なほ人に似させたまはぬを
それでも親しみがあって可愛らしく、かといって打ち解けてはいなくて凛として、気高く品のある振る舞いなどが、やはり並みの方ではいらっしゃらないのである。
などか、なのめなることだにうちまじりたまはざりけむ、とつらうさへぞおぼさる
どうして、ほんの少しの欠点すらおありにならにのだろう、と萎えてしまうほどである。
何事をかは聞こえ尽くしたまはむ
心の程を言い尽くすどんな言葉があるのだろうか、
くらぶの山に宿りも取らまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなかなかなり
暗いという名がついた「くらぶの山」であれば、夜も明けないのだろうが、あいにくの夜が短い季節なので、束の間の逢瀬はかえって逢うほうが辛いくらいである。
見てもまたあふよまれなる夢のうちに、やがて紛るるわが身ともがな
今日逢えて、またいつ逢えるかわからない、この夢のような時間のなかで、この夢だけを大事に思っていくのです。-源氏-
とむせかへりたまふ様も、さすがにいみじければ、
と泣いていらっしゃるのをみると、さすがに可哀想で、
世語りに人や伝へむたぐひなく憂き身を醒めぬ夢になしても
世間に語り伝えられてしまうようなことも、と思うと気が沈むもので、醒めることのない苦しみでございます。-藤壺-
思し乱れたる様も、いとことわりにかたじけなし
思い乱れるのももっともなことで、申し訳ない程のご心境の様子ある。
命婦の君ぞ、御直衣(なほし)などは、かき集め持て来たる
王命婦が君の直衣などを集めて持ってくる。
殿におはして、泣き寝に臥し暮らしたまひつ
その日は一日中二条院に過ごして、泣きながら寝所に臥していらっしゃった。
御ふみなども、例の、ご覧じ入れぬよしのみあれば、常のことながらもつらう、いみじう思しほれて、
藤壺に差し上げるお手紙は、ご覧にならない旨の返信が命婦からあるばかりで、それは前からのことではありながらも辛く、何も考えられずにぼうっとして、
内裏へも参らで、二三日(ふつかみか)籠もりおはすれば、また、いかなるにかと、御心動かせたまふべかめるも、恐ろしうのみおぼえたまふ
宮中にも行かずに、二三日ずっと二条院に籠もっているので、どうしたことか、と帝が気に掛けはしないかと考えると恐ろしいばかりである。
宮も、なほいと心憂き身なりけり、と思し嘆くに、なやましさもまさりたまひて、とく参りたまふべき遣いしきれど、思しも立たず
宮様も、やはり、とても情けないわが身であった、と後悔されて、体調も更に悪くなり、早く宮中へおもどり頂くようにとの言伝てを持ってお使いの方が来るけれども、参内はまったく思い立たず、
まことに、御地、例のやうにもおはしまさぬは、いかなるにか、と人知れず思すこともありければ心憂く、
実際に、気分がいつもと違うのはどうしたことなのか、と人には知られずに自分だけで思い到ることがあったので、益々憂鬱になり、
いかならむとのみ思し乱る
この先どうなることか、とばかりご心配になられている。
暑きほどは、いとど起きも上がりたまはず、
夏の暑い日には、全く起き上がることもおできにならず、
三月(みつき)になりたまへば、いとしるきほどにて、人々見たてまつりとがむるに、あさましき御宿世のほど心憂し
3ヶ月にもなれば兆候がはっきりとあるので、女房たちが見とがめるのにつけても、思いもかけない宿世がうらめしく感じられるのであった。
人は思ひよらねことなれば、この月まで奏せさせたまはざりけること、と驚ききこゆ
そうとも知らない周りの者たちは、「この月まで、帝にご報告なさらなかったというのは、」と驚いて申し上げている。
わが御心(みこころ)ひとつには、しるう思し分くこともありけり
しかし、ご自身の胸の内にはっきりと分かっていることもあるのだ。
御湯殿(おんゆどの)などにも親しう仕うまつりて、何事の御気色をもしるく見たてまつり知れる、御乳母子の弁、王名婦などぞ、
ご入浴の際などにも近くでお仕えしていて、ほんの少しの変化でも見過ごすことのない、藤壺の乳母の子である弁という女房や、王命婦などは、
あやしと思へど、かたみに言ひあはすべきにあらねば、
おかしいと思うけれども、二人の間でさえもお互いに言いかわすことではないので、
なほ逃れがたかりける御宿世をぞ、命婦はあさましと思ふ
更に深みにはまってしまった藤壺の宿世の程に、王命婦はおそれおののいているのである。
内裏には御物の怪の紛れにて、とみに気色なうおはしましけるやうにぞ奏しけむかし
帝には物の怪のせいで、すぐには妊娠の兆候が現れなかったというように報告をしたようである。
見る人もさのみ思ひけり
周囲の人々も、実際にそのように思っていたのである。
いとどあはれに限りなう思されて、
帝は、大変ご心配をされて、更に愛情を限りなくそそがれ、
御遣いなどの隙なきもそら恐ろしう、ものを思すこと隙なし
お遣いなどを頻繁におよこしになるので、それにつけても恐ろしく、心がやすまる隙がないのである
中将の君も、おどろおどろしう、さま異なる夢を見たまひて、
源氏の中将も、仰々しくいつもとは様変わりな夢を見たので、
合わする者を召して問はせたまへば、及びなう思しもかけぬ筋のことを合はせけり
夢合わせが出来る者を召喚して、お尋ねになると、思いもかけない内容のことが語られたのだった。
その中に違い目ありて、つつしませたまふべきことなむはべる、と言ふに、
「運命の糸のもつれがあって、ご謹慎するべき相がございます」と言うので、
わづらはしくおぼえて、
これは困ったことになったことになった、と感じ入り、
みづからの夢にはあらず、人の御ことを語るなり、この夢合ふまで、また人にまねぶな
「わたくしの夢ではなく、他の方の夢です。この夢のことが起きる時まで他言はないように」
とのたまひて、心のうちには、いかなることならむと思しわたるに、
とおっしゃり、心の中ではどういったことなのだろうか、と考えつづけていたところに、
この女宮の御こと聞きたまひて、もしもさるやうもや、と思し合わせたまふに、
藤壺懐妊のことをお聞きになって、もしや夢の合わせの出来事か、と思い当たることをお考えになる。
いとどしくいみじき言の葉尽くし聞こえたまへど、
切に言葉を尽くしたお手紙を差し上げるのであるが、
王命婦も思ふに、いとむくつけう、わづらはしさまさりて、さらにたばかるべき方なし
王命婦もこのことを考えるとうす気味悪く、わずらわしさが増して、更なる逢瀬の手引きなどということは到底無理なことであった、
はかなきひとくだりの御返りのたまさかなりしも絶え果てにけり
わずか一行のお返事をたまさかに頂くようなこともすっかり絶えてしまうのであった。