2011年9月2日金曜日

げに、言ふかひなのけはひや

かの山寺の人は、よろしくなりて出でたまひにけり
その頃、山寺でお会いした尼君は、病が少し回復して山をお下りになられていた。

京の御住みか訪ねて、時々の御消息などあり
京都の住処を訪ねて、時々お手紙を差し上げる。

同じ様のみあるもことわりなるうちに、この月頃はありしにまさるもの思ひに、ことごとなくて過ぎゆく
以前と同じ内容のお返事しか頂けず仕方なく思うところに、この何ヶ月は以前にも増して藤壺の宮へのご執心が深く、他のことには気が廻らずに時が過ぎていく。

秋の末つ方、いともの心細くて嘆きたまふ
晩秋の折、源氏の君は、大変心細くてため息をつかれる。

月のをかしき夜、忍びたる所に、からうじて思ひ立ちたまへるを、時雨めいてうちそそく
月のきれいな夜に、ひそかな通い処にかろうじて行こうと思い立ったところに、時雨のような雨がパラパラと降りだしてきた。

おはする所は六条京極わたりにて、内裏よりなれば、少しほど遠き心地するに、
おいでになられた場所は六条京極のあたり、宮中より退出されてこられたので少し遠くまで来た心地がするところで、

荒れたる家の木立いともの経(ふ)りて、木暗く(こぐらく)見えたるあり
荒れた屋敷で、年代物の木立がうっそうとしていて、月の光さえも遮られてるように見える場所がある。

例の御供に離れぬ惟光なむ、
例のお供として、いつも側にお仕えする惟光が、

故あぜちの大納言の家にはべりて、
「亡くなりました、あぜちの大納言の家でございます。

もののたよりにとぶらひてはべりしかば、かの尼上、いたう弱りたまひにたれば、何事もおぼえず、となむ申してはべりし
先日ついでの時に訪問したところ、その尼君は大変衰弱されてしまい、ものも考えられなくなったというように申しておりました。」

と聞こゆれば、
と申し上げると、

あはれのことや、訪ふべかりけるを、などかさなむとものせざりし、入りて消息せよ
「それは気の毒なことじゃないか、お見舞いに伺うべきだったのにどうしてそれと伝えなかったのか、中に入って取り次ぎをしなさい」

とのたまへば、人入れて案内せさす
とおっしゃれば、家来のものを屋敷の中に入れて取り次ぎをさせる。

わざとかう立ち寄りたまへること、と言はせたれば、入りて、
たまたま立ち寄ったとは伝えないように、と申し伝えると、家来の者は入っていき、

かく御とぶらひになむおはしましたる
「このようにお見舞いにおいででございます」

と言ふにおどろきて、
というので、驚いて、

いとかたはらいたきことかな、この日ごろ、無下にいと頼もしげなくならせたまひにたれば、御対面などもあるまじ
「まあ、どういたしましょう、ここ数日ですっかり力を落としてしまわれているので、ご面会などもままならないでしょう」

と言へども、帰したてまつらむはかしこしとて、
とは言っても、お帰しすることも畏れ多く、

南の廂、ひきつくろひて入れたてまつる
南の廂の間を急遽ひきつくろいお通ししたのだった。

いとむつかしげにはべれど、かしこまりをだにとて
「このような難しいところまでおいでいただきまして、ご挨拶だけでも」

ゆくりなう、もの深き、御座所(おましどころ)になむ
「にわか仕立ての、埋もれたような場所でございまして」

と聞こゆ
と女房が出てきて挨拶をするのだった。

げにかかる所は例に違いて思さる
たしかに、ここは普通の屋敷とはずいぶん趣が異なって感じられる。

常に思ひたまへ立ちながら、かひなき様にのみもてなさせたまふに、つつまれはべりてなむ
「いつもお伺い致したいと思いながらも、甲斐のないお返事ばかりを頂いてたものですからご遠慮いたしておりました。」

なやませたまふこと、重くとも承はらざりけるおぼつかなさ
「ご病気が重いとも存じておりませんでしたので、」

乱り心地はいつともなくのみはべるが、限りの様になりはべりて、いとかたじけなく立ち寄らせたまへるに、みづから聞こえさせぬこと
「体調がすぐれないのは今に始まったことではありませんが、もうこれまでとなりましたときに、畏れ多くもお立ち寄り頂きましたのに、直にお話しすることができないというのは・・・」

のたまはすることの筋、たまさかにも思しめしかはらぬやうはべらば、かくわりなき齢(よはい)過ぎはべりて、かならず数まへさせたまへ
「かねてより仰せいただいておりました件、万が一でもお心変わりがありませんようでしたら、このような子供子供した年頃を過ぎましたら、是非とも数の中に入れてくださいませ。」

いみじう心細げに見たまへおくなむ、願ひはべる道のほだしに思ひたまへられぬべき
「たった一人で心細げに遺して逝くことが、この世の未練となってしまうのかもしれません。」

など聞こえたまへり
などとおっしゃっている。

いと近ければ、心細げなる御声絶え絶え聞こえて、
大変近いところにいらっしゃるので、途切れ途切れにか細い声が聞こえてきて、

いとかたじけなきわざにもはべるかな、この君だに、かしこまりも聞こえたまひつべきほどならましかば
「わざわざおいで頂いて、大変恐縮でございます、せめてこの姫君が、お礼を申し上げることができるくらいの年齢でしたら、よかったのですけれども、」

とのたまふ
と尼君がおっしゃっている。

あはれに聞きたまひて、
心深くお聞きになられて、

何か、浅う思ひたまへむことゆゑ、かうすきずきしき様を見えたてまつらむ
「どうして、浅はかな気持ちから、このようなお願いができましょうか」

いかなる契りにか、見たてまつり初めしより、あはれに思ひきこゆるも、あやしきまでこの世の事にはおぼえはべらぬ
「どのような契りなのでしょうか。初めてお見うけしたときより心に強く印象づけられております。不思議に今世だけのこととは思えないのです。」

などのたまひて、
などとおっしゃって

かひなき心地のみしはべるを、かのいはけなうものしたまふ御一声、いかで
「せっかく参りましたので、あどけなくていらっしゃる姫君の一声をなんとか、」

とのたまへば、
とおっしゃるので、

いでや、よろづもの思し知らぬ様に、大殿籠(おおとのご)もり入りて
「いやもう、何も知らずにおやすみになっておりまして」

など聞こゆるをりしも、あなたより来る音して、
などと女房が申し上げているその時に、あちらのほうから来る音がして、

上こそ、この寺にありし源氏の君こそおはしたなれ、など見たまはぬ
「おばあさま、御山にいらっしゃった源氏の君がおいでになったんですって、どうしてお目にかからないの?」

とのたまふを、
とおっしゃるのを、

人々、いとかたはらいたしと思ひて、あなかま、と聞こゆ
女房たちは、やきもきとして、「お静かに」と申し上げる

いさ、見しかば、心地の悪しさ慰みき、とのたまひしかばぞかし、
「だって、お目にかかったからご病気が良くなった、とおっしゃったから・・・」

と、かしこきこと聞きえたりと思してのたまふ
と、ちゃんとものを知っているかのごとく言っているのであった

いとをかしと聞いたまへど、人々の苦しと思ひたれば、
大変粋な、と聞いていたけれども、周りの人々もきまりが悪いだろうと思ったので、

聞かぬやうにて、まめやかなる御とぶらひを聞こえおきたまひて、帰りたまひぬ
聞かないふりをして、丁寧なお見舞いの言葉をいい残されてその日はお帰りになられた。

げに、言ふかひなのけはひや、さりとも、いとよう教へてむ
「なるほど、まだ他愛のない感じだが、よく教えてみたい」

と思す
と思う。